給食トピックス

「學校給食指針」に見る教育としての給食(1)

昭和7年9月、文部省訓令第18号「学校給食臨時施設方法」が定められ、国庫補助による貧困児童救済のための学校給食が初めて実施されることになります。

この訓令の発出に伴い9月15日に発行されたのが學校給食指針(学校給食指針、以下「指針」)です。 その増補(昭和8年2月1日)を手に入れることができました。

学校給食の始まりといえば、明治22年(1889年)鶴岡市家中新町の大督寺境内にあった私立忠愛小学校、その再開が戦後GHQ主導し、ララ物資を活用し始まった昭和21年(1946年)という出来事が有名ですが、その間にも学校給食を巡る象徴的な出来事があり、そのひとつが学校給食臨時施設方法によって開始された学校給食です。


当時の状況と欠食児童の社会問題化

当時日本は昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)に直面していた経緯がありました。世界恐慌の波が日本経済を危機的な状況に陥れており戦前の日本における最も深刻な恐慌でした。

当時の日本は生糸をアメリカ輸出をしていましたが生糸価格が暴落し、他の農産物も価格が崩壊、昭和5年(1930年)の豊作により農業恐慌も本格化しました。

そして、昭和6年(1931年)は一転して東北地方・北海道地方が冷害によって大凶作になりました。不況のために兼業の機会も少なくなっていた上に、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家の経済は疲弊していました。

その時全国的な規模で「欠食児童」が発生し、深刻な社会問題となっていたのです。


「欠食児童」とは特に学校へ弁当を持参できず食生活に問題を抱える子どもを指して用いられることが多くあります。


学校校給食ノ実施ニ当タリテハ貧困救済トシテ行ハルモノタルガ如キ威ヲ興フルコトナク寧ロ養護上ノ必要ニ出ヅルモノナルガ如クシ周到ナル注意ヲ払フコト(學校給食臨時施設方法に関する件より抜粋)


「学校給食臨時施設方法」は欠食児童の問題を解決するためのものとして思われがちですが、読んでみると学校給食実施の目的が貧困救済ではなくむしろ「養護上」必要なものであると説いています。つまり、自力で生活ができるように支援、教育することであり、福祉や保育だけでなく教育に密着した概念の上にたった施策だったことが読み取れます。

この当時参考にしていたのが英国で行われていた学校給食で1906年の学校給食法とされています。その対象としては「欠食児童」はむしろその一部で、他に多数の「栄養不良児童」がいたと言います。

そこで、「如何なる場合でも学校給食は慈善事業と見做すことは出来ない。所謂健全なる精神は健康なる身体に宿るという理想のひとつの表現である」という英国学校給食の理想を評価しているのです。

日本においても、要給食児童について調査をしたところ、欠食児童としての原因が貧困による者の数は貧困以外の原因によるものの1/2~1/3の割合であり、欠食児童の中には貧困以外の種々の原因で学校に弁当を持参できない者が2倍~3倍も多いことがわかりました。

ここで文部省は学校給食の本旨を学校衛生の問題として取り扱わなくてはならないという結論に至ります。(続く)

企業広告

  • ①株式会社 中西製作所

サービスサイト

  • WFP

企業サイト

  • ②オーケーズデリカ株式会社
  • 株式会社 菜友