給食トピックス

日本で初めての学校給食は江戸時代の会津藩で始まった?

日本で初めての給食。 文部科学省の全国学校給食週間のページを読むと、「我が国における学校給食は、明治22年に始まって以来、各地に広がっていきましたが、戦争の影響などによって中断されました」と説明されています。 関係者なら誰もが知っている日本の初めての学校給食は1889年、山形県鶴岡市(当時鶴岡町)の大徳寺に開設された忠愛小学校といわれています。テレビでもときどき紹介されていますね。


 そして、部科学省も学校給食業界もそれを広めてきました。今年の学校給食週間中にもその当時の献立を再現している学校が多くあったことでしょう。

 鶴岡市忠愛小学校で始まったとされる学校給食は1886年(明治19年)の学校令公布を受けて1989年(明治22年)に西川田郡鶴岡各宗私立忠愛尋常小学校が開校しました。 つまり開校の年にすでに学校給食が始められたと考えられています。

 忠愛小学校には何人の子どもが通っていたのでしょう。明治26年当時ですが、男児37名、女児14名、うち平民が41名、士族10名が通っていたといいます。当時は「貧乏学校」との俗称がありながらも、大督寺は徳川酒井氏の菩提寺であり、忠愛小学校開校前は旧藩士子弟教育のための英語学校が開設されていた由緒ある寺です。

 では、どのようにして学校給食発祥の地として認定されたのでしょう。

 1989年に山形県教育委員会と学校給食百年事業実行委員会が出版した「山形県学校給食100年のあゆみ」を読むと、火災のために明確な文献として残っていないそうですが、当時の給食を受けた古老や関係者を訪ねて得た談話から「開校と同時に開始された」と言っても差し支えないものと思われる、とそこで宣言されています。同年には、学校給食100周年記念会の主催により「学校給食100周年記念大会」が千葉県の幕張メッセで行われました。    

 どのようなヒアリングによって学校給食が行われていたと判断されたのでしょうか。

 当時の大督時に出入りしていた豆腐屋は「最初、生徒のうち、毎日昼飯を食べないものが数人いた。先生が不思議に思って調べてみると、生徒同士から弁当を盗まれていることがわかった。しかも弁当を盗る子どもの家庭は極度に貧困で三度の食事にも事欠くものがいた。これを放任しておくと、弁当盗難事故が増える傾向があるので、職に困っているものにひそかに昼食を与えることにした。そして度々は、行乞による施米で、全部の子どもに大供養をやったものである」と話しています。

  当時の在校生にも話を聞いています。

  「祖父は二男であった自分を忠愛小学校に明治22年と同時に入学させた。当時自分の家は一日三度の食に事欠くほどであったので、学校で教科書学用品のほか昼飯など一切の給与を受けた

  「忠愛学校開校と同時に入学、在校生67名を覚えている。昼食を受けたが、白米の握り飯2個だったと思う。副食は野菜と魚類で、その類は主として塩乾物であった。牛乳や肉類は全然みたこともない

  このヒアリング調査の結果を以って、日本で初めての学校給食の歴史と献立が示されました。 以降、おにぎり、塩鮭、青菜という日本で最初の給食が日本中で紹介され、全国学校給食週間で食べられることになります。

江戸時代に会津藩校で学校給食が始まっていた?

 ところで、会津若松市城西小学校の今年1月の学校給食献立表にこんな表現がありました。 もちろん、全国学校給食週間にちなんだ紹介記事です。

1月23日 学校給食はじまり献立
学校給食のはじまりは、山形県私立忠愛小学校とも会津の日新館とも言われています。当時の給食は、おにぎり、塩ザケ、漬けものだったと言われています。給食の歴史に触れる献立です。”

会津藩校日新館

  どちらかといえば控えめな表現ですが、会津藩校の日新館も日本で最初の学校給食であったと子どもたちに伝えています。

  今回、日本の学校給食の歴史が見直される可能性がある、会津藩校日新館で実施された学校給食がどのようなものであったか、何を以って日本で最初の給食とされているのか、1月に福島県会津若松市へ行って調べてきました。


会津若松市立会津図書館

 会津図書館が入っている会津若松市の生涯学習総合センターの愛称は「會津稽古堂」。1664年会津藩主保品正之の時代に創立、身分の隔てなく誰もが自分を磨くことができた学問所としては日本最古のものと言われています。

 会津図書館では、当時の会津藩校日新館で給食が行われていた旨の記載がある図書を探し、会津史談第67号(平成5年会津史談会)に詳しく書かれていることがわかりました。

 それによると1806年に学校給食が行われていることがわかりました。


 江戸時代、各藩には藩校という藩士を育てるための学校がありました。藩士の子供たちは、そこで藩士にふさわしい人間になるために教育を受けていました。 会津藩では、「日新館」がそれにあたり、1803年に城の西隣に開設され、戊辰戦争や、その後に活躍する人材を数多く輩出しています。 有名な「ならぬことはならぬ」はここから始まっていたのです。


 開校当初、生徒の昼食は弁当持参でしたが、1806年文化3年7月22日、学校の諸生15歳より上の者に昼一飯の賄いを給せられたのでした。

 当時の会津藩は窮乏の底にあり、しかも前年には第5代、第6代藩主がなくなったこともあり、会津藩大老田中玄宰は1806年に「賄扶持ち」を実施します。 この賄扶持ちは、それまでの給与をいったん廃止して、老若男女を問わず1人1日白米5合、味噌20匁に薪若干を給与するという、賃金廃止、最低限の食事現物支給でした。

 これにより、会津藩の支出は抑制される一方、藩士の家計は困窮します。育ち盛りの子どもがいたら大変です。そのため日新館では給食という異例の措置がとられました。


 学校関係の諸費用は従来どおり給与され、現在の教育委員会に当たる学校奉行から諸師範及び15歳以上の生徒には昼食が提供されました。

 その給食は、一汁一菜で平日は香の物だけ、ひと月に2、3度乾魚・塩鮭の類があり、汁は細々した豆腐に青菜を用いたとあります。

 「会津史談」では「後継者育成のために学校関係の費用はそのままにして、更に藩費で給食を実施したことは絶賛に値し、敬服してやまない」とあります。

  本書には参考文献が記されていましたので、この学校給食についての元の記事がどこに書かれていたものなのか、確認する必要があります。

  図書館を後にして、同市河東町にある会津藩校日新館に向かいました。元の校舎は戊辰戦争の際に焼けてしまいましたが、場所を移し忠実に再現されています。 白虎隊の学び舎としても知られる日新館では、生徒たちが日々何をどのように学んでいたのかを知ることができます。 数多くのパネル展示のうち、1点だけ、学校給食に関するパネルがあり、そこにはこう書かれていました。

 

日本で最初の給食制度

 日新館ができて3年目の文化3年(1806年)「十五才以上の者に昼一飯の賄を給せらる」の記録があり、日本の最初の給食制度といわれています。内容は極めて質素で一汁一菜が基本でした。 会津藩では、財政上困っていましたが、この為に藩士の給与を一時額をへらすなどして、給食を実施しました。

 会津史談と同じ内容です。 どこから引いてきたのでしょうか。 日新館の事務所に寄って質問したところ、担当の方より一冊の本を提示いただきました。 先の参考文献のうちの一冊「会津藩教育考」でありました。著者は小川渉氏。出版されたのは昭和6年の事でした。マツノ書店から復刻版が発売されています。会津図書館も所蔵しているようです。

 該当箇所を複写していただきよく読んでみると、日新館における給食は緊急的なものであり当初3年間の見込で行われましたが2年で終了していたことがわかりました。 調べてみると国立国会図書館のデジタルコレクションに収蔵されていて、ネットでも読むことが可能です。

  著者は1843年会津藩士小川常有の次男として生まれ、藩命により昌平黌に学び、戊辰戦争に参加ののち斗南に移ります。その後、長崎での教員を経て会津に戻り「会津藩教育考」を執筆します。

 著者自ら藩校で学び、また教えた人でもあり、その内容は信頼に足るものではありますが、1843年生まれであるため、伝え聞きによるものであるとも記されています。

 日新館の方はこれまでの通説を覆すできごとをどのように考えているのか、今後強くアピールすることも考えているか、伺ったところ「日本で最初の給食は山形県鶴岡市で始まったといわれているし、会津若松市ともいわれている、ということでよいのではないか」とのことでした。 先に紹介した給食献立表の記載と同じことをおっしゃるのです。 もしかするとそれが共通認識になっているのかもしれません。


  会津若松市の教育委員会では、このことをどのように考えているのか、伺ってみました。 「できれば子どもたちに教えてほしいと栄養士に伝えているが、どちらかといえば9月の会津まつりに併せて提供する『篭城食』給食に力を入れています」とのことでした。

 会津の先人に感謝するとともに、戊辰の役で亡くなった会津藩士や戦火に巻き込まれた方々の慰霊と鎮魂のため式典である「先人感謝祭」、鶴ヶ城本丸で出陣式が行われる「会津藩公行列」。 その時期に併せて、明治新政府軍と戦い、鶴ケ城に立てこもった会津藩士や家族が食べた「篭城食」を会津藩士の娘が残した記録を元に再現し、学校給食に提供しています。 献立は、雑穀入りご飯、具沢山の味噌汁、かぼちゃと大豆の味噌煮、栗、なのだそうです。

 このように、日本の学校給食発祥の地と新たに名乗ることよりも、会津魂を伝える大切な食の原風景がある、ということです。 また、会津藩校日新館の担当者は、「おそらく他所の方からすると、給食の件をもっとアピールすればいいのにと感じるのではと思います。会津の人々の昔からの商売っ気のなさは、短所でもあり、私がとても好ましく思うところでもあります。」と話してくれました。

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